BookQuest3P

企画を生きざまとする5人の仕掛けの、気まぐれなブックレビュー。仕事に使えたり、暇つぶしや、リラックス専用も。多少のエゴの炸裂があるかもしれませんがその辺はご愛嬌。

かぐや姫の物語(高畑勲 2013)

日本最古の物語といわれる「竹取物語」に、高畑は「創世記」を重ねて見せた。

月(=エデン)の住人であったかぐや姫(=エヴァ)は、罰を受けて月を追われ、地球に生を受けなおす。そこは日本のかつての楽園­=里山である。幼少時のかぐや姫は奔放に野山を駆けまわり、川遊びに誘う男児たちの前で恥じらいなく全裸を晒す。

ある日、悪童たちと畑から果実を盗んだかぐや姫は、藪に隠れて捨丸(=アダム)と共にそれ(=禁断の果実)を食べる。食べた瞬間、かぐや姫は女児から少女へと、少しだけふくよかに変貌する、その描写はやわらかく繊細である。そして少女となったかぐや姫は、十二単(=イチジクの葉)で厳重にからだを覆い、都(=失楽園)へと向かう。

都は、愛欲と嫉妬の渦巻く「穢れ(=原罪)」た世界であった。ここで穢れにまみれることがかぐや姫の受罰であり、日々虚栄に満ちた求婚が繰り返される。やがて疲れ果てたかぐや姫は故郷へと逃げ帰るが、すでに里山は枯れ果て、そこには色を失った一面の銀世界が広がるばかりであった。その雪原に寝そべり、「私、ここを知っている」とかぐや姫はつぶやく。

失意のうちに都へ戻ったかぐや姫は、ついに帝の求愛を受けるに至る。そしていよいよ進退窮まったその瞬間、罪は赦され、やがて月から迎えの使者が訪れることとなる。

月は、悲しみも苦しみもなく穏やかに永遠を生きられる楽園である。しかし、理想であるはずのそこからやって来たのは、はたして色褪せた空ろな姿の使者達だった。かぐや姫が雪原で思い出したように、月とは色のない世界だったのだ。

そして、地上での穢れにまみれるという受罰をねぎらう使者に対し、かぐや姫は「人間は、穢れているからこそ、美しい」のだ、と決然と言い返し、月へと帰っていく。

 

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この物語には、里山と月、ふたつの「楽園」が登場する。里山に生を受けなおしたかぐや姫は、都で罰を受け、やがて赦されて月へと帰る。これは、里山という楽園を捨てて都市に住むことを選んだ私たちが、「もうひとつの楽園」に回収されつつある今日の状況と重なる。

「もうひとつの楽園」からの褪色した使者たちの姿は、生きながら死んでいる者のそれである。それは、可能な限りの全てを(生きることさえも)外部化し続けることをやめない私たちの、遠くない未来の姿のようにも思われる。苦しみのない世界は苦しみを乗り越えた喜びのない世界でもあり、死が遠ざけられた世界は生が希薄な世界でもある。「もうひとつの楽園」、はたしてそこは楽園なのだろうか。

余白を多用した水彩の透明な映像は、世界が色で出来ていることを、また色をなくせば世界が失われてしまうことを、不断に意識させる。そして、色彩の楽園である里山に対し、月は色のない世界として描かれる。色のない世界とは失われた世界である。それこそ失われた楽園=失楽園ではないか。

一方で、穢れにまみれた失楽園であるはずの都は、色に満ちている。そもそも原罪と穢れは異なるものだ。神道でいうケガレとは「気枯れ」つまり人の気が枯れてしまった状態のことであり、むしろそれは月の世界と合致する。対して月の住人が言うところの穢れとは原罪すなわち人間の生命の営みそのもののことである。そこからの救済が彼らにとっての愛であるのに対し、都での愛とはまさに色=愛欲であり、それは旺盛な生命の営みである。したがって、都は欲にまみれながらも活気に満ちている。かぐや姫はここを「美しい」と言った。はたしてここは失楽園なのか。

高畑が「竹取物語」と「創世記」を重ねた意図は、おそらくそこにあるのだろう。両者は似て非なるものであり、人間という事象を肯定(穢れているから、美しい)するか否定(原罪)するか、により楽園と失楽園の関係は逆転するのだ。このねじれの構図の中に物語のキーメッセージが埋め込まれているように思う。

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かつて高畑は「平成狸合戦ぽんぽこ(1994)」で、宅地化が進む多摩丘陵を追われた狸たちに最後の力を振りしぼらせ、「失われた里山」の光景を私たち人間に見せてくれた。まだオウム地下鉄サリン事件の1年前のことである。

その後フクシマすらも経験した20年後の私たちは、もはやかつての楽園のノスタルジーに安易に浸ることはできない。他方、進む先に待ちうけるのは不吉な楽園である。であれば、過去でも未来でもなく今と向き合い、人間のありのままを受け入れるべきなのではないか。それがこの物語における、20年を経た高畠の視座である。

そもそも「業の肯定(©立川談志)」は広告屋の使命でもあり、「人間をまるごと見ること(©東海林隆)」は生活者発想の基本姿勢である。人間から目を背けない、私たちにもその覚悟が要るのではないか。そこにしか活路は見出せないのではないか。78歳にしてなお時代の中心に身を置き業と向き合おうとする老作家に、はるかに若い私たちが遅れをとる訳にはいかない。

 

高畑勲は、このような物語を、寓話に陥らせることなく、そよぐようなファンタジーに仕上げてみせた。

傑作だと思う。

 

 

余談だが、書いていて、福島原発の原子炉建屋とオウムの上九一色村サティアンの雰囲気がよく似ていることに気がついた。どちらも永遠を目指したがゆえに死の気配を纏うことになったのだろうか。高畑描く月の世界にも通じる、色を感じない世界である。